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願望に生きた偉人③ チンギス・ハン 後編


無差別主義の帝王

   チンギス・ハンがモンゴル高原を統一した後、高原の外の国家へ積極的に遠征した背景には、将来的にモンゴルの脅威になる周辺国家を潰す目的があった。モンゴル高原が長らく群雄割拠の状態にあったのは、モンゴル周辺の中国王朝など大国が、モンゴルに干渉して諸部族の統一を妨げていた側面が大きい。すでに50歳前後の年齢に達していたチンギス・ハンは、モンゴル統一で勢いを増す軍勢を率い、自分が生きている間に出来る限りモンゴルにとっての邪魔者を滅ぼし、子孫に国を譲ろうと考えていた。

 チンギス・ハンは1207年にオイラトやキルギス、1209年には大陸の東西交易拠点を支配する西夏(現在の中国甘粛省にあったタングト族の国)、天山ウィグル王国(現在の新疆ウィグル自治区にあったウィグル族の国)といったモンゴル周辺の部族国家を服従させる。彼は特に西夏の攻略に力を入れた。その理由は西夏が貿易拠点である他に、当時の陸上の物資輸送に欠かせないラクダの最大生産地だったからだ。モンゴル騎馬隊は平原では無敵であったが、西夏遠征では初めて経験する攻城戦に手こずる。それでも、モンゴル軍は知恵を絞ってなんとか城砦都市を攻略して西夏を帰順させる。そして、貢ぎ物として大量のラクダをモンゴルに持ち帰った。この時の経験がモンゴル軍の攻城戦術や攻城兵器の発展を促し、その後の中国遠征や中央アジア遠征で大いに役立つことになった。

 1211年、モンゴル帝国は中国の金朝と開戦する。金は現在の中国河北にあった女真族の王朝である。大国の金は、昔から隣接するモンゴルに干渉して部族間の争いを助長する厄介な存在だった。しかし、チンギス・ハンがモンゴルを統一した頃、金の国内では農民反乱が続き、王朝が衰退し始めていた。この機に乗じて、チンギス・ハンは金の征服を企てた。金に侵入したモンゴル軍は、西夏遠征での攻城戦の経験を活かし、城砦や長城を攻略しながら金の首都に迫った。1215年に金の首都中都は陥落し、金皇帝宣宗はチンギス・ハンに帰順した。チンギス・ハンは金朝を滅ぼすまではせず、大量の戦利品、馬、奴隷を引き連れてモンゴル高原に引き上げた。

 1218年、モンゴル帝国は、かつてナイマンから逃亡したグチュルクが王となっていたカラキタイに侵攻する。カラキタイはモンゴル高原西方のトルキスタンの地にあった国だ。当時、カラキタイ国内では、グチュルクが仏教とキリスト教を優遇し、イスラム教を厳しく弾圧していたため、イスラム教徒の反乱が激しくなっていた。チンギス・ハンはこの状況を利用し、イスラム教徒解放の名目で侵攻した。モンゴル軍の侵攻に呼応してイスラム教徒が一斉蜂起し、グチュルクがすぐに殺害されたため、モンゴル軍は労せずカラキタイを併合した。同年、チンギス・ハンはホラズム王国へ国交を結ぼうと使者を派遣する。ホラズムは、現在のイラン、アフガニスタンに広がる中央アジアのイスラム大国で、シルクロードの要所ブハラ、サマルカンドといった国内のオアシス城砦都市が東西貿易で大変栄えていた。

 そんな折、事件が起こる。ホラズムのオトラルという町で、その地方の知事がモンゴルの通商使節団を皆殺しにして贈り物を奪ったのだ。1219年、ホラズムをモンゴルの脅威と認識したチンギス・ハンは、ホラズムへの遠征を開始する。この遠征では20万人規模の大軍勢が投入された。モンゴル軍はブハラ、サマルカンド、ニシャプール、メルプ、バーミヤンといった主要都市を陥落させながら。ホラズム王ムハンマドとその息子のジェラール・ウッディーンを追った。1220年、ムハンマドは逃亡中に病気で密かに息絶えた。ムハンマドを追った軍勢はその後も西進し、ロシアからクリミア半島まで進出し、ブルガリアを侵略して、1224年に遠征を終えた。一方、ジェラール・ウッディーンを追う部隊は、アフガニスタンからインダス河を渡って追跡したが、インドの酷暑に耐え切れず、追跡を断念して遠征を打ち切る。1225年、中央アジア一帯を支配下に入れた遠征軍はモンゴルに帰還する。

 チンギス・ハンは1226年、帰順していた西夏が謀反の態度を示したため遠征を始める。この遠征が彼にとって最後の戦いとなった。遠征中に彼は病を患い、次第に体調を悪化させてゆく。1227年7月、モンゴル軍に主要都市の大部分を制圧された西夏王李晛は降伏した。その1ヶ月後、チンギス・ハーンは本営を置いていた六盤山で病が悪化して死去する。チンギス・ハンは臨終に際し、重臣たちに今後の金朝征服の方策を授けるとともに、支配地で反乱が起こらないように、自分の亡骸がモンゴルに到着するまでは自分の死を隠し通すよう指示したという。チンギス・ハンの亡骸はモンゴル高原の起輦谷に密かに葬られたという。その墓は未だに見つかっていない。

 チンギス・ハンの生涯は征服戦争に明け暮れたが、彼はただの征服者ではなかった。征服地がユーラシア大陸の広大な範囲に拡大するにつれて、支配地の安定統治に力を入れるようになる。支配層のモンゴル人は当時100万人にも満たない少人数である。その数100倍の民が住む支配地全土で一斉に反乱が起きたら、いくら強力なモンゴル軍でも鎮圧は不可能となる。そこで、支配地から重用した現地人官僚の知恵を取り入れながら融和的な統治政策を実施してゆく。モンゴル軍は抵抗する相手には容赦なく攻撃を加えたが、素直に服従する国家や都市には寛大に自治権限を与えた。チンギス・ハンは支配地域ごとにモンゴル人総督と少数の兵士を置き、住民にはチンギス・ハン一族の権威の尊重と、少額の税の支払いを求めるに留めた。支配住民の文化や宗教には一切介入せず、モンゴルの文化や風習を住民に押し付けることもなかった。逆にモンゴル人たちは支配地の有用な文化や技術を積極的に吸収していった。

 一方で、チンギス・ハンはモンゴル帝国内の交易を発展させる目的で、街道や駅の整備を進め、国内の安全で自由な人と物資の移動を保証していった。また、人種・部族、宗教の対立が紛争の種になることを避ける為、モンゴル帝国内での人種や宗教による差別を一切禁止した。チンギス・ハンは能力がある人を、人種や宗教に関わらず国家の要職に抜擢し、無差別主義の範を広く国内に知らしめた。この無差別主義こそ、モンゴル統治の大きな特徴だ。チンギス・ハンは差別の禁止を法に定め、法を犯すものを厳しく罰した。彼自身も様々な宗教の指導者と接見し、各宗教を公平に尊重するように努めたという。さらに、人民の自由な移動と交易、無差別政策を妨げる集団的な反逆行為には、強力なモンゴル軍の力でこれを徹底して退け、ハンの権威を示すようにした。チンギス・ハンのこのような政策には、前述のような彼の寛容で公平な人柄が表れている。

 チンギス・ハンがモンゴル帝国で展開していった政策・思想は、厳しい部族間の戦いに明け暮れる中で、彼が試行錯誤しながら合理的に導き出した平和な世界統治を実現する一つの答えであった。彼が願望として実現しようとしたこのような国をあり方は、彼の子や孫に引き継がれて実現し、帝国の発展に大きく貢献した。彼の孫のフビライ・ハーンの時代にモンゴル帝国は、東は朝鮮半島、中国、西は中東、地中海、ロシアに至る人類史上最大の多民族国家に拡大した。様々な地域、民族、宗教の背景を持つ人々が盛んに帝国内を行き交い、豊富な物、文化が国の隅々に行き渡った。その結果、国の経済は栄え、文化は融合・発展を遂げた。かつてのような、民族同士が復讐と富の奪い合いのために争いを繰り返すことは無くなった。モンゴル帝国はハーンの権威のもと、ユーラシア大陸の広大な領地を地域毎の自治、無差別、自由交易を保証する連邦国家として14世紀の初頭までは民衆を平和の中で統治した。

 しかし、平和と繁栄を謳歌したモンゴル帝国もやがて崩壊に向かう。フビライ・ハーンの死後、モンゴル帝国全体を統治できる強力なハーンは現れなくなり、チンギス・ハンの子孫一族が地域毎に分割(大元ウルスチャガタイウルスジョチウルスフレグウルス)してユーラシア大陸を支配するようになった。さらに各地域を支配するモンゴル人が現地のイスラム教やチベット仏教に改宗し、法や統治体制を現地化させたことで帝国の分裂は一層進んだ。軍隊の主体であるモンゴル人が分裂したため、モンゴル人の帝国内での支配力は弱まる結果となった。さらに各地域では、現地民の反乱、地域間対立、宗教紛争、王族や有力氏族の権力争いが絡み合いながら激化し、かつての部族間の争いと同様の混乱が慢性的に続くようになる。こうして支配力を失ったモンゴル人は、現地民の反乱で支配地から追い出されたり、現地勢力と同化した独立国を作るなどして、内部崩壊の形で14世紀後半に巨大な連邦国家を消滅させてしまう。

 自ら生み出した無差別主義という知恵で多民族からなる平和な世界を作り上げたモンゴル人が、後に特定の宗教に傾倒し、認識する世界をローカル化させ、平和を謳歌した世界国家を分断・崩壊させてしまったことは、知恵の本質を世代を超えて継承することの難しさをただ示すものだ。チンギス・ハンがかつてホラズム王国を征服した時、サマルカンドでイスラム教の指導者と面談することがあった。アラーの神に日々祈りを捧げることで天国へ行けるという教えを指導者から聞いたチンギス・ハンは次のように述べたという。「天の恵みを受けて、何事にも努力して取り組むのが、人の取るべき道ではないか。ただ、予言や神にすがり、毎日祈りを捧げるだけで、すべての災難から逃れ、死後はアラーの神の元へ行けるというのは、怠け者の言い訳ではないのか」。望む世界は神から与えられるものではなく、当事者が意志を持ち、その実現方法を模索する行動の結果として獲得するものという、願望実現の本質をチンギス・ハンは語ったのである。 



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