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願望に生きた偉人② 田中角栄 前編


実行力の政治家

 田中角栄は終戦後の日本で地域の経済格差を是正し、貧困の無い生活環境を地方に整備したいという願望に生きた政治家だ。高等小学校卒の学歴ながら、一貫した政治理念と行動力で選挙民、官僚、政治家を自らの味方につけ、内閣総理大臣にまで登り詰めた人物である。政治家としての政策実行力は戦後の政治家の中で最高と言われている。 
 
 田中角栄は1918年、現在の新潟県柏崎市に生まれる。田中の実家は農業と牛馬商をしていたが、父が事業に失敗し、田中は極貧の子供時代を過ごす。小学校時代の田中は賢く、級長を務めるほど成績優秀な生徒だった。特に記憶力はずば抜けて優れていた。子供時代の田中は吃音の癖があり、それを克服しようとあえて難しい文言が書かれた「六法全書」を毎朝田んぼの真ん中で大きな声で音読していた。田中は音読を繰り返しているうちに六法全書を全て暗記してしまったという。 

 田中は上級学校に進学できるほど頭は良かったが、家庭の経済状況から進学を諦めた。1933年に高等小学校を卒業後、田中は昼は建築関係の仕事に携わりながら夜学に通い、土木建築や商業の勉強を続ける。そして1943年に建築会社「田中土建工業」を設立する。田中は勤勉に働き、取引先に恵まれたこともあって、会社は施工実績全国50位になるまでに事業を拡大する。1945年、田中は工事のために滞在していた朝鮮半島で終戦を迎え、本土に引き上げる。本土の会社資産はほぼ無傷で残っていたため、田中は戦後成金となる。  

 朝鮮半島から帰国した田中は、貧しく飢えた人々で溢れる荒廃した祖国を見る。子供時代に貧しい生活を体験していた田中は、国をいち早く復興させ、貧しい人を食べられるようにすることが先決と考え、自分の持てる私財を投じて政治家になることを決意する。田中は1947年の衆議院選挙で新潟3区から初当選を果たす。国会議員になった田中は1948年に当時の吉田内閣で法務政務次官に抜擢され、法律の形成過程を深く理解する機会を得る。この経験が後の立法活動に活かされてゆくことになる。田中が政治家として本格的に活動するのは、衆議院選挙で再選を果たす1949年以降となる。 

 田中角栄が国会議員として政治テーマとしたのは生活インフラ整備と国土開発だ。当時、開発が進み工業地帯や大都市を抱える太平洋側に比べ、開発が及ばない日本海側は裏日本と呼ばれ、農村で貧しい生活を強いられる人々が多く住んでいた。彼は故郷の新潟についての思いを次のように述べている。「新潟県の人たちは1年の1/3は雪に埋もれ、働く場所もない。出稼ぎに出なくてはいけない。まずそれを無くさなければいけいない。それでこそ家庭の幸せがあり、皆の幸せがあるんだ」。 

 この思いから、田中角栄は故郷の新潟県を中心に地方に働く場所を確保するために、工場誘致と誘致に必要な電源開発、水資源開発、道路などのインフラ整備に力を注いで行く。戦後復興期の当時、増え続ける電力や水資源の需要に対応するため、ダム建設や治水路の整備が国の課題となっていた。また、1950年前後の日本では、全道路のうち舗装道路の割合は3%未満とトラックによる大量輸送が困難な状態だった。田中の地元である新潟県では舗装道路がないだけではなく、山間部の細い道が冬に雪に埋もれて孤立する集落が多く存在した。病人やけが人が出ても近隣の病院に運べずに命を落とす人がいるほど道路整備が遅れていた。 

 田中はインフラ整備に必要な電源開発促進法水資源開発促進法道路の管理や整備財源に関するいわゆる道路三法(道路法ガソリン税法有料道路法)などを次々に成立させ、国の政策として様々な地方のインフラ整備事業を実現してゆく。また、地方からの陳情を受け付ける仕組みを作り、自らもスタッフとともに綿密な現地調査を行い、国のインフラ整備計画に反映させていった。田中角栄は自ら提案して33の議員立法を成立させ、間接的に関わったものを含めると生涯に100本以上の議員立法の成立に関わる。これほど多くの議員立法を成立させ、自ら提案する政策を実施していった政治家は田中角栄以外にはいない。 

 本来、国会議員の仕事は政策を企画し、国会で政策実施に必要な法律を作ることであるが、今も昔も議員が法律を作ることは少なく、官僚が作った政策・法案を政府提案として国会で審議することが多い。田中角栄は政治家が政策方針を示し、それに沿って官僚が具体的な事業計画や法案を作るという本来のやり方を実行していった。 

 田中は地方からの陳情、現地調査の結果を綿密に分析してインフラ整備方針を決定した。その政策方針を分かり易く官僚たちに伝え、戦後の復興事業を担う官僚のやる気を引き出した。田中は法律や行政ノウハウの知識を身につけた官僚の優秀さを認めており、敬意もって気さくに官僚に接した。官僚と徹底した議論を行い、自らの政策を実現するのに必要な知恵を彼らから引き出していった。また、省庁の枠にはまり、過去の事例に縛られて柔軟な思考ができない官僚の弱点に対し、田中は実社会で苦労する中で身につけた知恵を官僚に与えた。六法全書を全て暗記し、法務政務次官を経験した田中の法律知識と、社会経験に裏打ちされた田中の斬新な発想に議論をする官僚は皆感服したという。 

 田中は政策を進める中で、官僚の権限を超える他の省庁との調整が必要な部分があれば自ら積極的に調整を図った。さらに官僚の協力で作成した法案の国会審議では自ら明快な答弁で法律の趣旨を説明し、野党からの批判をかわした。このようにして次々にインフラ整備に必要な法律を成立させ、戦後の復興事業に燃える官僚たちが公共事業を進めやすい状況を作ることで、田中は官僚から絶大な信頼を得ていった。田中は1957年に郵政大臣、1962年に大蔵大臣、1971年に通産大臣を歴任してゆく中で、自らの手足となって働く官僚人脈をあらゆる行政機関へ広げ、国の公共事業計画や予算編成への影響力を強めていった。 

 一方で田中は与党内での政策決定権を確実にするため、与党議員の多数派工作を着々と進めていった。田中は民主政治の原理をよく理解していた。「政治は数、数は力、力は金」という彼の言葉は政治の本質を突いている。田中は1961年に与党自民党の政務調査会長、1965年に自民党幹事長と要職を歴任し、党運営でその実力を示すとともに政策と人事における発言力を強めていった。また、田中は地方に誘致した公共事業で潤う企業団体から得た多額の献金を使い、多くの与党議員の選挙資金を手当てすることで、彼らを自分の派閥に引き入れていった。そして、自分の派閥の議員を政府の重要ポストに配置していった。田中は与党内で最大派閥を作ることで政策と人事の決定権を手に入れていった。 

 こうして田中角栄は地方からの陳情を与党の政策に反映させ、官僚機構を使って政策を具体的な公共事業として確実に実施させる体制を整える。田中は実施を約束した陳情案件は確実に実行していった。その結果として、田中は整備事業により生活環境が改善した地域の住民から強い支持を集めてゆく。そして実行力で得た信用を基に、田中は全国の地方自治体や経済団体などあらゆる方面に人脈を築き、その人脈から政策企画に必要な日本全国の正確な実態を知るための情報を得てゆく。さらにインフラ整備事業を誘致できた地方の土建業者を中心とした企業からは多額の政治献金が田中の元に集まるようになった。また、それらの企業の組織ぐるみの協力体制と地元民の支持により田中は選挙で安定した票を集めることがでるようになった。 

 このようにして得た情報、金、選挙基盤、そして政府内に築いた官僚・議員人脈でさらに強力にインフラ整備政策を推し進めるという政治循環を生み出すことに田中は成功する。この循環こそ田中の政治家として実行力の源であり、後に与党自民党の政治システムとして展開され、献金や選挙の票と地方への事業誘致が密着した金権政治と批判を浴びることになる。 (後編へ続く)



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